黒猫Jayの個人的な雑談を集めた空間です。 主に扱うのは、創作と感想とその他です。
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最初のSFマガジン『Amazing Stories』の第1号(1926年4月)
こちらのリンクで読めます
(当時の25¢は、現在の物価で約2$85¢ぐらい)
人間の子供が名前を授けられるのは産まれと同時であるが、全ての文学のジャンルが名付けられるのは常に生まれてから時が経った後だ。一つや二つ新しい小説が出たぐらいじゃ、余程の傑作でもない限りその小説のタイトルを呼ぶだけで済む。しかし数十以上の同じ枠組みの作品が出ると、その枠組みの名前が必要とな る。要するに文学のジャンルという物に名前が付けられるのは、その文学のジャンルが一つの形として生き延びた証拠だとも言えよう。名前が出来たの事は、その名前が持つ意味を問われる事を意味する。そして問いには、答えが必要となるのである。
ではSF界の先人達は、どの様な作品を「SF(科学小説)」だと定義してきたのろう?この話を真面目に始めると本当に切りが無い。これは多くの作者と読者によって長年議論してきた問題であり、未だにハッキリした答えなど出ていない。もし何かの形で出たのを「これが答えだ」としても、それでより議論が広がる事 はあっても、みんな納得し頷く筈もない。この様な難しさから、SF作者のデーモン・ナイト(1922-2002)は次の様な言葉さえ残している。
他のいくつかのSFの定義を述べるまでもない。上記の一言が「SFというジャンルの定義を語るのがどれほど難儀な事なのか」を表している。そこに私みたいな ものが入り込んだ所で、どうにかなるとは思えない。 しかし、どうにもならないものは、逆にそれを私が言い出した所でさほど問題にならないという意味でも ある。だから案件が重過ぎるけど、結構気楽に述べられる。
それではSFの話をしたいのだが、その前に先ず語らなければならないジャンルがある。そう、「ファンタジー」だ。ファンタジーは太古の時代の伝説、神話や民 話を始まりとする文学であり、文字が発明される前、人から人へと口伝された「人類と共に歩んできた文学」である。それに比べれば、SFは極めて若いジャン ルになる。むろん科学という概念は昔からあったのだから、科学小説も昔からあったとも言うかもしれない。しかし科学小説でいう「私達が普通『科学』と呼ぶもの」は、産業革命後に生まれた「近代科学」を指す。つまり18世紀後半か19世紀に入り「近代科学」と「近代科学的な思考」が確立した後でないと、「科学小説」であるSFも始まり様がないのだ。
かつての神話の中に、近代科学の産物みたいな物が無い訳でもない。古代ギリシャ神話の例をあげてみよう。最高神ゼウスを締め上げたテューポーンは手足の腱を 奪い取り熊の皮に隠し、彼をデルポイ近くの洞窟のコーリュキオンに監禁した。後にその奪われた腱は他の味方の神々の手によって取り戻され回復する訳だが、 今の人から見ると「まるで機械の部品が外され止まったけど、後で戻され動き出した」かの様に見える。石ノ森章太郎の作品「サイボーグ009」の『ミュート ス・サイボーグ編』では、ギリシャ神話の神々の名を持つサイボーグ達が出てくる。同じギリシャ神話の最初の神々の名を持つ「ガイア博士」と「ウラノス博士」の手によって作られたものとして登場している。それも神話での描写が、科学の結晶であるサイボーグを連想させるからの他ない。
また聖書で出て来る天使の描写でも、科学の香りを感じる人は多い。特に有名なものは、エゼキエル書の第一章に出る預言者エゼキエルが見た幻想の話だ。
「第三十年四月五日に、 私がケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。(中略)私が見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その 周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。その火の中に青銅のように輝くものがあった。またその中から四つの生きものの形が出てきた。その様子はこう である。彼らは人の姿をもっていた。おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。その足は真っ直ぐで、足の裏は子牛の足のうらのようであり、みがいた青銅のように光っていた。その四方に、そのおのおのの翼の下に人の手があった。この四つの者はみな顔と翼をもち、翼は互に連なり、行く時は回らずに、おのおの顔の向かうところにまっすぐに進んだ。顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、獅子の顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互に連な り、他の二つをもってからだをおおっていた。彼らはおのおのその顔の向かうところへまっすぐに行き、霊の行くところへ彼らも行き、その行く時は回らない。 この生きものの内には燃える炭の火のようなものがあり、松明のように、生きものの中を行き来している。火は輝いて、その火から、イナズマが出ていた。生き ものは、イナズマの閃きのように速く行き来していた。私が生きものを見ていると、生きもののかたわら、地の上に輪があった。四つの生きものおのおのに、一つずつの輪である。もろもろの輪の形と作りは、光る貴かんらん石のようである。四つのものは同じ形で、その作りは、あたかも、輪の中に輪があるようであ る。その行く時、彼らは四方のいずれかに行き、行く時は回らない。四つの輪には輪縁と輻とがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。生きものが 行く時には、輪もそのかたわらに行き、生きものが地からあがる時は、輪もあがる。霊の行く所には彼らも行き、輪は彼らに伴ってあがる。生きものの霊が輪の 中にあるからである。彼らが行く時は、これらも行き、彼らがとどまる時は、これらもとどまり、彼らが地からあがる時は、輪もまたこれらと共にあがる。生き ものの霊が輪の中にあるからである。生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。大空の下にはまっすぐに伸ばした 翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、体を覆っている。その行く時、わたしは大水の声、全能者の声のような翼の声を聞いた。 その声の響きは大軍の声のようで、そのとどまる時は翼をたれる。(後略)」
エゼキエルが見たヴィジョン(1650年の木版画、作者不明)
実にUFO支持者達が好むネタである。この部分を引用し「古代人が見たUFOの目撃談だ」と主張する者は少なくない。そしてヒンズー神話では、より露骨な科学の産物の感じが匂う。「バガヴァッド・ギーター(神の歌)」では次のような描写が出てくる。
「アシュヴァッターマンは、その言葉に烈火の如く怒り、戦車の上で丁寧に口をすすぎ、煙のない炎のような輝きに満ちたアグネーヤ(火箭)をマントラ とともに発射した。無数の矢は空を覆い炎に包まれアルジュナの頭上に落下した。ラークシャサ、ピシャーチャたちは大声で騒ぎ立ち、不吉な風が巻き起こり、 太陽は光を失った。カラスの群れはいたるところでなき騒ぎ、雲は雷鳴を轟かせ血の雨を降らせた。鳥も獣も聖者たちも心安まらず、天地は波立ち太陽は逆の方位に向かった。アグネーヤの力に恐れおののいた象やその他の生物は突然駆け出し、必至にその下から逃げ出そうとする。外界の水は熱せられ、水棲動物は熱に灼かれ暴れ回る。一面の空から落下するアグネーヤ矢に灼き焦がされた将兵は、炎に包まれた樹木さながらに燃え上がり次々に倒れていった。象も馬も戦車も山火事に遭った樹々のように燃え、悲鳴を上げてのた打つ。それはまさにユガ(世界の時間)の終わりに一切を焼き尽くすサンヴァルタカの 火のようであった。」
一部の熱性的な古代文明信奉者はこれらの記述が指すのは古代の神話に出る神々の戦いの場面ではなく、「核兵器」とか「ミサイル」みたいな現代兵器が活躍する 戦場の描写に違いないと言っている。そう思うのは、何もオカルトマニアだけではないかもしれない。核爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」のリーダーの「ロバート・オッペンハイマー」は、実験で核爆発の威力を目にしバガヴァッド・ギーターの11章32節から次の言葉を引用した。
科学者さえバガヴァッドの一説を、最先端の科学の産物(この場合、負の産物だけど)と重ねて見たほどだった。なら私達は科学小説の始まりを、近代科学の始まりより遥か以前の時代の神話や物語りだと言えるのだろうか? この問いに対して私は断言しよう。
もし私達が神話や民話、伝説から近代科学的な香りを感じるのなら、それは私達が科学という学問を子供の頃から学び生活の一部として接してきたからに過ぎな い。人は何かを語る時、知っている物を通してのみ認識し表現し得るものだ。21世紀の現代にも宗教はあるが、昔の人々ほど信仰心が誠実なものではない。そして信仰心の薄い分、我儘と科学的な偏見で満ちている。現代の人間と全く異なる観点で観て聴いて感じていた古代人が記録した物を、今の私達の常識により捻 じ曲げられた状態で見ているのに過ぎないのだ。だから科学を学んだ私達は「神話の中で、古代の人々達は考えもしなかった『本来そこにある筈の無い近代科学的な産物』を見付けるミス」を犯してしまうのである。
ちょっと話が主旨から離れ過ぎたので、元に戻そう。「SFとは何か?」を語る時、嫌でもファンタジーの定義も語らなければならない。しかし始めに私が述べた様 に、ここで作品の定義をする事など私一人でどうにかなる範囲の問題では無い。ではせめてその境界線の話しはどうだ。二つの似て異なるジャンルの曖昧で有耶 無耶な境界に線を引けるのだろうか。実は、その正確な境界など誰も図りし得ない。SF(科学小説)で言う「科学」の範囲が、何処までだと限界を決めない限 り、SFというジャンルの限界も決まらない。しかし何処までも発展し何でも出来る科学を描いたら、それはファンタジーと変わらない領域に入る恐れがあ る。 逆にSFの科学の限界を厳密に絞り過ぎると、今度は世の中の殆どのSF作品はSFではなくファンタジーだとしか言えなくなり、残る僅なSFは「科学 知識を語る小説」に限定されてしまうだろ。この方法では、答えにならないのだ。
それではSFとファンタジーの間に、一体どの様に線を引くべきだろうか。その境界線に関しては余りにも多過ぎる意見と論争がある。他人の考えを例にあげるの は止めといて、私自身の思いを形にしてみよう。私に言わせれば、SFがファンタジーと異なる最大の特徴は「作品で描かれる社会が、今の現実と『科学(の発展)』と云う避けられない道で繋がっている」事だ。そう『科学小説』に出る社会は遠い過去でも近い未来でも、地球など登場しない銀河の遥か彼方であって も、今私達が生活している現実社会と『科学』という道(具)で繋がっている「現在の延長線の世界」なのだ。だからSFの世界観は、それがユートピアであれ ディストピアであれ、現実社会の科学が発展を遂げれば必ず辿り着く(可能性の)終着駅なのだ。もし作品の舞台が未来じゃなく今より過去の時代、「かつて科学が凄い発展を遂げた古代文明」だとしても、科学が発展して作品に出るくる科学技術が実現すれば、また人類は同じ過ちを繰り返すかもしれない不安感が私達 を襲う。過去でも未来でも、違う場所であってもだ。科学と云う道具は耐えず発展しては衰退するものであり、人間が上手くコントロール出来なければ、全て 「いつか私達が受け入れる事になる未来」になる宿命を背負っている。そう、この事実はSF作品の舞台が「いつか実現される世界の姿」を表し、作者の意図と 関係無く全てのSF作品に「現実批判」の要素が潜んでいる事を意味するのである。
この事実が「ファンタジー作品で現実批判が無い・出来ない」との意味にはならない。例えばジョージ・オーウェルの『動物農場(1945年)』はファンタジーながら 見事に現実批判をしているし、その先輩に当たるジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記(1726年)』も社会批判満載の作品だ。それだけじゃない、『イソップ寓話』も古代メソポタミアから始まった人間と社会を批判した最古のファンタジーだと言える。
ファンタジー作品での現実批判とSFでの現実批判の重さに差は無いものの、「ファンタジー作品に出てくる社会」と「SF作品の舞台である社会」には上で述べた 通り決定的な違いがある。ファンタジーの舞台が現実と異なる次元に存在しようが、何かのゲートで繋がっていようが、現実の裏社会なだけで一般人に知られていないとか、それとも古代や遠い未来に実際に起きた事だとかの設定だとしても、ファンタジーはあくまでもファンタジーであり現実世界とは常に一定の距離を 持つ。ゲートやら何かを使ってファンタジーの世界と現実を繋げるとしよう。二つの異なる世界が繋がった途端「ファンタジー世界が現実世界の一部になるので はなく、現実世界がファンタジー世界の一部として取り込まれてしまう」特徴を持つ。だからファンタジーの深層部には「どうせ現実には成らない・成れない安 心感」がある。この特徴からファンタジーを使った現実批判は、昔ながらの寓話が持つ特性を共有する。
しかしSFはどうだろ。SFの特徴である『科学』と云う道具は、ファンタジーで見られる「不思議な力』とは決定的な違いがある。それは作家のアーサー・C・ クラークが言った様に「高度に発達した科学は、魔法と見分けが付かない」のだとしても、その実態はあくまでも今現在私達の知る科学の慣れ果ての姿だ。つま り「SFで登場する優れた科学」とは、「現実の科学の延長線」である。発達した科学が技術のレベルの低い場所でまるで魔法みたいに輝かしく見えたとして も、根本的に科学が違うものへと変わる訳ではない。科学には一定の水準に達したか、まだそこまで至ってないかの違いがあるのみだ。そして前述べた様に、「SFで描かれた科学技術」が「現在の科学技術の未来」である様に、「SFで描かれる世界の姿」が「現在私達の住む世界が向かった先」を示している。だからSFは大きかれ小さかれ、必然的に現実批判になる宿命を背負っている。
もしSFで描かれた世界がユートピアならば、「何故今の世界はそうで無いか、何が足りなかったのか」と云う問いに繋がる。またSFで登場する社会がディスト ピアであれば、「何故世界がそうなってしまったのか、一体何がいけなかったのか」と警告を鳴らす事だろ。小説『タイムマシン(1895年)』で描かれた労 働者とブルジョアジーの別れた未来が、1920年に発表された小説『われら(Мы)』と1949年に出た小説『1984年』で描かれた統制された社会が、小説『すばらしい新世界(1932年)』の尊厳を見失った人々の姿が、全てディストピアに向かう「今」への警告なのだ。
ところでディストピアを描いたSF作品に対し、ユートピア的なSF作品は昔に比べ段々少なくなっている。それは「科学が全てを解決してくれる」と云う熱い信仰心から人々が冷めた事に原因がある。
何故「科学」の話しをしてるのに「信仰心」が出てくるのかお分かり頂けるだろうか。19世紀、 近代科学が発展しその限界が無いかの様に思われた頃、人々は力を失って行く神の代わりを科学から見付けた。科学の発達により今まで知らなかった原理を知り、医者は不治だと思っていた多くの病気を治せる様になり、直接目に映る事のない古い神様じゃなく眼で確認できる科学の力を「新しい神」として崇めたのである。だから「科学」に「信仰心(科学万能主義)」を抱いた。誰でも確実に結果を出す科学は、人々から昔ながらの神を忘れさせた。 しかし、人々は忘れていた、いや忘れようと努力した。「科学は人の道具に過ぎない」と云う事実を思い出したくなかったのだ。道具はそれを使う主の素質が反映されるものであり、 道具は己の限界を超える事も出来ない。だから不完全な人間が振るう発達途中の科学は完全であらず、神の代わりなど務める筈もなかったのである。人体に無害だと思われた殺虫剤のDDTは、人体に蓄積され奇形児や様々な病気の元になる事が後になって分かった。画期的な発明品のフロンガスは、実は地球上の生命を 紫外線から守っているオゾン層を破壊する主な原因だった。奇跡の力だと言われた核は、放射線害の元であったのだ。
シラミ駆除のため頭にDDTを吹きかけられる子供たち(1947年5月)
DDTが人体に無害だったと思われた時代だったからこそ、出来たことであった。
写真の出所:毎日新聞
これらの過ちは科学知識が足りなかった事から来ているのだけど、問題はそれだではない。科学が発達して今より完璧に近付いたとしても、それを扱う側(=人間)が変わらない限り過ちは繰り返される。人類自ら自分達を滅ぼせる兵器を完成してしまった時、人々はその事実を痛感してしまった。だから未来を容易く ユートピアとして描く事に、人々は抵抗感を感じる様になったのだ。
景気が悪くなったり、戦争の臭いがして来たりすると、ファンタジー作品が人気を得る。 これらの理由は先言った通り、ファンタジー作品の持つ「現実と途切れた世界である」特徴に起因する。だからファンタジーは逃避先に成れるし、安心感を持って楽しめる。だけどSFはそれが出来ない。SFからは「現実に繋がる 不安感」がジワジワと漂ってしまう。SF作品がメジャーに成れない(または成り難い)一番の原因は、この様に「純粋に楽しめられない裏の事情」が絡んでる からではないかと思う。人々がフィクションを楽しむ理由の多くは「殺伐した現実から少し離れ、休みを取る為」なのだが、SFにある「現実と微かに繋がって いる事実」が、読者に完全な安らぎを与えず何処かで不安にさせるのではなかろうか。
SFとファンタジーとの違いを決めるのは、作品内で描かれる近未来の世界観とか科学っぽい何かとか宇宙人や宇宙船などの「見た目の設定の問題」ではない。「物語と私達の住む現実を結ぶ必然性があり、その仲介役が『科学』であること」…これこそがSFとファンタジーを分ける一番の特徴だと私は思う。これはSFと 云うジャンルが「どうしても現実世界と結び付き、自由に成り難い宿命を背負っている」事であり、SFがファンタジーに比べ「純粋な娯楽に成り難い」限界なのかもしれない。