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BlackCatJayの雑談空間

黒猫Jayの個人的な雑談を集めた空間です。 主に扱うのは、創作と感想とその他です。

Artの和訳に関する雑談

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Artの和訳に関する雑談

こんな言い方がある。

 

「◯◯は芸術の域に達した」

 

これをお褒めの言葉として受け入れる人が居れば、「芸術が何を偉そうに!」と自分の興味のある対象が芸術より低く見られてる事に怒る人も居る。私には、怒る 人が芸術をどう定義してるのかまでは分からないし、それ以前に上記の言い方を使った人の想ってる芸術の定義も、他人である私として解り様がない。
 

辞書から「芸術」を探してみたい所だが、そもそも「芸術」という単語が「芸術」として使用され始めたのは、そう長くない。19世紀、日本が西洋から優れた先 端技術や知識を取り入れようと必至になっていた頃にその始まりがある。先進国を支えている学問を取り入れるため、多くの学術・思想の書籍が日本語に翻訳され始めた。そして、その過程で今まだ日本には無かった概念や知識が一気に押し寄せた時期である。そこで人々は新しい概念に当てはまる新しい単語がないと、翻訳作業が進まない事を悟った訳だ。 


「科学(Science)」、「芸術(Art)」を始め今だと子供さえ見慣れてる単語が、その時に西洋の書籍の翻訳の為に生まれた。正確に言うと完全に新し く創られたものではない。古い中国の書籍で使われた単語の中から、それらしき物を掬い上げ再活用したのだ。だけど、本来その単語が使われた時期の意味合いとは異なる目的と場所で使用されたのだから、単なる再活用だと言い切れない。そこは「新しい意味として採用された」と言っていいだろ。

 

つまり「芸術とは何か?」を論じるのであれば、その芸術の翻訳前の単語である「Art」を知らなくては話にならない。そう、これはまるで川の流れを辿り、それの源流たる湧水を探る旅である。

早速辞書から「Art」の意味を見てみよう。Artには大きく次の3つの意味がある。


 

①芸術、または芸術作品

②技・術 

③人工


 

1番の「芸術」は私達が普段耳にする意味である。また3番の「人工」は「人工知能」の意味として使われる「A.I」が「Artificial Intelligence」の略である事から分かり易い。しかし、英語に親しい人でない限り2番の「技術」は、じっくり来ないかも知れない。とにかく、こ の3つの意味から最初に持ち出した「◯◯は芸術の域に達した」という言葉は、どちらの意味で解釈すればいいのだろうか?
 

3番の「人工」では全く違う気がする。人が作ったものであれば、それは当然人工でしかないからだ。「◯◯は人工の域に達した」 と言った所で、「はあ、そうですか…当たり前の話しですよね?」として返し様がない。2番の「技術」も代入してみた所で、そう違わない様に聞こえてしまう。「技術の域に達した」と言った所で、全く褒め言葉になっていない。ならばやはり1番の「芸術」の意味として使われたとしか、答えがなさそうに見える。しかし、それでは最初の問い の文章がそのまま維持されるだけで、何の解答にもならない。
 

この難関を解くには、Artという単語をより深く覗いて見る必然がある。Artが2番の「技・術」の意味で使われる例をあげてみよう。漢文から英語へと翻訳されたものに「Martial Art(武術・格闘技)」「The Art of War(孫子兵法)」がある。これらにはArtが明らかに技術という意味として使われている。 そこを同じArtの意味である「芸術」として読み解けて見 たら、どうなるのか。「Martial Art」が「戦士芸術」に、「The Art of War」は「戦争芸術」に成ってしまう。物凄い違和感を感じる方が殆どではなかろうか。もし戦うのも芸術であり、戦争に勝つ為の技術も芸術だと言えるな ら、「何でもかんでも芸術と言えるであれば、殺人さえも芸術だと言い張れるのではないか?」と言いたくなる。しかし、実はその疑問は正しい故に間違ってい る。言い直すと「疑問自体は正しい」けれど、疑問の全般になる「Art=芸術」という翻訳に間違いがあるから、結果的に疑問が間違いになってしまうという寸法だ。
  

 

前ブログに書いた『翻訳するべきか、翻訳しないべきか、それは問題じゃない』でも述べた様に、翻訳作業は非常に難しい作業だ。多くの関連知識を求められ且つ 文化的な理解も伴わないと、正しい翻訳など出来ない。そして、その「文章や書籍の翻訳」より難しいのが「単語の翻訳」である。文章の翻訳の場合、より正確な意味を伝える為に元の文より少々長くしたり、それが困難なら注釈を入れられる事もあり得る。だけど映画の字幕や歌の歌詞みたいに「限られた時間の中で限 られた文字数しか使えない」制限のある文章の翻訳は、補足すら出来ないから一般の翻訳作業より更に難しい。もちろん専門書籍みたいに「先ずその分野の専門 知識を知っている」のを前提とする翻訳作業や「読み易くて面白い文章でなきゃならない」小説の翻訳が簡単だと言う訳ではない。だが限られた文字数で元の意 味合いを保つのが、そうでない場合より難しい事は確かだ。そしてその「文字数制限のある翻訳作業」の頂点たるものが「単語の翻訳」である。

 

単語は文章として翻訳されてはいけない。単語は必ず単語として翻訳される必要がある。しかし、前の話しで述べた様に、同じ国の言葉の方言の間でもその作業は 難しく、隣国の言葉であってもその願いは儚い夢であるのを私達は熟知している。増してや、文化的にかけ離れた地球反対側の言葉に対しては言うまでもない。


 

それだけじゃない。19世紀当時の翻訳作業は、現代の私達には無かった高い障壁がいくつもあった。今じゃ解らない外国語の単語や諺があればインターネットで 検索すれば済む。一昔前だって辞書や関連書籍を開けば、多くの事が解るものだ。しかし、正確な外国語の辞書そのものが存在しなくて、外国語を勉強する人達 が自ら辞書を創り出した時代じゃ、今の便利な環境とは訳が違うのだ。どこにも参考書はなく、馴染まない文化や歴史を知るにも、海外へ行ける身分・財産の持ち主は極僅かしかいない。結局、来日した外国人か、彼らが持ってきた外国語で書かれた原書を通して知るしか道は無かったのである。その外国人との出会いも 海外の書籍も貴重で稀な事であり、しかもそれで出逢ったものを通して伝わる知識が「正確である保証」もなかった。話してる相手が、語ってる分野の専門家で ある保証がない。何とか工面して手に入れた原書に書かれてる知識も、正しいとは言い切れない。そんな不憫な時代に翻訳された「Art」の和訳が不完全なも のだとしても、それを今の私達が責めるのは酷であろう。不憫な時代に不憫な翻訳が為されたのは、仕方のない事なんだから。

 

 

Artの持つ①芸術・②技術・③人工の意味は、全部かけ離れてるかの様に見える。しかし、実はそれらは全て同じ意味へ繋がっている。その仕組みを理解するには、先ず現代の西洋文化の根本を成したキリスト教…その中でもカトリックの事を知らなくてはならない。

 

「古代ギリシャは?ローマ帝国は??それらの方がキリスト教の成立より遥か昔ではなくて?」と疑問を投げる方がいらっしゃるかも知れない。そもそも英語の Artはラテン語のArs(アルス)からきており、アルスには「技術」という意味がある。「芸術は長いが、人生は短い」と翻訳された、古代ギリシャの医者 のヒッポクラテスの名言をご存じだろうか。実はヒッポクラテスが医者だった事から、彼の言うアルスとは、技術の中でも医術の事を指しているのが判るだろ。 それを考慮すれば「医術は膨大なのに、それを学ぶのに人生が短過ぎる」が、本来彼が言いたい言葉であるのが解って来る。

しかし、古代ギリシャの哲学や、それに強い影響を受けたローマ帝国の思想ではなく、カトリックからArtの意味を探らなくてはならないのか?その流れについ てじっくり語ろうとすれば非常に長くなるので、ここでは簡略化しよう。実は古代ギリシャやローマ帝国の知識や思想は、中世ヨーロッパに直接受け継がれた訳 ではない。西ローマ帝国の滅亡以来、本番ヨーロッパでは古代ギリシャ哲学が完全に途切れてしまった。その途切れた古代ギリシャの哲学や思想はイスラム圏に 伝わり、初期イスラム文化の発展に貢献した。そしてアラビア語に翻訳され生き延びていた古代ギリシャの思想は、後にヨーロッパへ戻る事になる。


 
多くのギリシャの書物をアラビア語に翻訳したイスラムの偉大な哲学者「アル・キンディー」。彼の功績なしでは、今のイスラム哲学は完成しなかったとも言える大哲学者である。またギリシャ哲学のヨーロッパ復帰によるルネサンスも、現代に古代ギリシャ哲学が残る事も無かっただろ。
 

また古代ローマ帝国の優れた帝国運営のノーハウやそれを支えた建築技術に至っても、絶滅してしまった。古代ローマ時代に建てられた頑丈な石とコンクリートの 橋は、「こんな代物、人間技で造られる訳がない。きっと悪魔が建てたに違いないんだ」と勘違いされ「悪魔の橋」と呼ばれる始末であった。(その中では19 世紀、蒸気船の通過の妨げになり爆破処理されるまで、普通に使用された橋もある。つまり火薬で爆破処理しなきゃ割に合わない程丈夫な橋が約2千年前に建てられ、利用され続けた訳だ)
 

古代ギリシャの哲学の書物がアラビア語から翻訳されヨーロッパへ戻って来るまで、約千年もの時代の流れがあった。その間、既にヨーロッパではカトリック教会としてまとめられたキリスト教の思想が深く根を張っていた。だから逆流入された古代ギリシャの思想や哲学が精神的な基盤に成れる事はなく、既に基盤と成っ ていた「カトリック」の解釈に使われたのである。だからこそ私達は、キリスト教(主にヨーロッパのキリスト教の中心であったカトリック教会)の観点からArtの意味を探らなくてはならない。
 

ここで改めてキリスト教に関して一から説明したいのは山々だが、どう足掻いても分厚い本一冊書いてもまとめ切れないのが解ってるので、重要な部分だけ語る事にしよう。(これは直ぐ話が横道に逸れる、私の悪いくせを防ぐ為でもある)


 

キリスト教の重心にあるのは、唯一神である。唯一神が自ら存在する唯一無二のものであり、

この世と世の中にある他の全ては、神の手によって創造されたと云う。そして自分の姿に似せて人間を創った。ここで分かるのは、神が創り出した全宇宙の創造物の中でも「人間だけ」が神の姿を基にして創られた。つまり人間は、他の創造物と格が違う。キリスト教の世界観では、この世界は人間その他(自然)の三つに分けられるのだ。



ミケランジェロ作『アダムの創造』 唯一神の顔は、まるで古代ギリシャの神の王「ゼウス」を連想させる。これにはルネサンスが14世紀のイタリアで始まった事と、ミケランジェロが同時期の人物であった事にヒントがある

 
人間が他の創造物、生きて動く物=動物との違いは姿形だけではない。神の姿で創られし神の子たる人間は、神の子として相応しい能力があるのだ。それは聖書の 創世記に記されている『知恵の実』だ。禁断の果実だった知恵の実を食べた事により、人は自分が裸である事に気付く。そして自分達の恥部を隠す為、イチジク の葉を綴り合わせ腰に巻いた。粗末極まりないけれど、服の始まりだ。聖書に書かれてる限り、これが知恵の実を食べた人が道具作りを始めた瞬間だ。
 



ルーベンス作『原罪』



知恵の実の齎すものとは、「何かを作り出す力」そのものだ。知恵があるから計画し、設計し、組み立てては運用できる。人の姿が神の姿の模倣である様に、その「作り出す能力」は、唯一神だけが持っている「創り出す能力」の模倣だ。「作り出す」ことは、人と他の動物の一番の大きい能力の違いである同時に、神に 近づける唯一の道でもある。
 

ここまで来ると、Artの持つ①芸術②技術③人工の大きい三つの意味が一つに帰結する事に気付く方もいると思われる。①神の創造物に限りなく近い作り物(芸術)、②神の行使する神業に等しいもの(技術)、③神が創造した様に人の作り出しもの(人工)。正しくArtは知恵の実を食べた人間が手に入れた「神の知恵(創造力)」そのものを指しているのだ。だからArtは単なる技術の意味には収まらない。 単に技術の意味だけなら、同類の単語のSkillやTechniqueなどの単語を 使って構わない。単なる技術の枠を超え神の領域に近付いたものだけが「Art」と呼べるものなのだ。
 

では最初の話し戻り、もう一度同じ文章を読み上げて見よう。
 

「◯◯は神業(Art)の域に達した」 


 

これは文句の言い様のない、最高の褒め言葉ではなかろうか。

 

 


追求)因みにArtには「芸術」以外に「美術」という和訳もあるが、これに関しては後に機会があれば語る事にしよう。(本文で話そうとしたけど、話しが横道に逸れそうだったので諦めた)

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