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BlackCatJayの雑談空間

黒猫Jayの個人的な雑談を集めた空間です。 主に扱うのは、創作と感想とその他です。

映画『TIME(原題:In Time)』、お金と資本主義の本質とは

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コメント

1. SFというより

私も好きな映画です。
SF的なガジェットが数多く登場するけど、SFというよりファンタジー作品だと思いました。
不死を実現した社会とは思えないようなつっこみどころが多々あるのですが、SF的に説得力のあるバックボーンが語られないので、これはファンタジー作品だと思い込むようにして、心の中で解決しました。(笑)

それにしても、ハーラン・エリスン、映画の公開中止を要求をしたんですか。(笑)

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映画『TIME(原題:In Time)』、お金と資本主義の本質とは



2011年に出たSF映画『TIME(原題:In Time)』、評論家から辛口を言われ、観客から傑作だと絶賛された訳でもない。映画の斬新さで評価するアメリカの映画情報サイト「ロトントマト(腐ったトマトとの意味)」の関連ページをみても、2015年12月3日現在で新鮮度36%、点数は5.2/10の低い数値だ。そのストーリーが分かり難かったから評価が乏しいのかというと、そうでない。物語は極めて単純明快である。それを可能にしたのは人間そのものに数字で確認できる時間制限のある世界観のお陰だ。

 


“人類は遺伝子操作で25歳になると成長が止まり、残り一年の時間が左腕の手首に刻まれ、それがゼロになれば死んでしまう”

 

 その世界に現実でいう「お金」は無い。使用される通貨は「時間」である。食べ物も、家賃も、通行料から全ての料金は自分の体に残された「時間」で支払われ、人々は死なないために自分の残り時間を働いて稼ぐ。主人公のウィル・サラスは、貧民街で母親と二人暮らしをしている。収入は非常に乏しく、一日働いてその日食って生きれる時間(お金)を稼ぐのがやっとの青年だ。そんな主人公がある日、貧民街で時間を奪い撮ろうとする不良達に絡まれた金持ちを助け、彼から餞別として117年という時間を受け取る。そこから物語が展開されるのだ。



「結婚いつするの?」との母からの質問に対する主人公の答え。 ここでいう「ヒマ」とは、「お金が無い」意味である。

 

 117年という庶民には想像も出来ない「時間」を手にした主人公は、いつも少ない残り時間に追われる母親と自分の時間を分け合う為に走る。手首に刻まれた時間が切れたら人は死んでしまうのだから、お互い電話で呼び合いながら走って行く。バス料金が上がった所為で母の残り少ない時間ではいつも通りに乗って行く事も出来ず、貧民街にタクシーなんか無いので息子から近付くのも適わない。お互い必死に走りしかない。でも、その努力も虚しく、母の時間は息子の目の前で切れて死んでしまう。そして時間で管理される社会体制そのものに復讐する為、主人公が動き出すのである。

 

 先言った「ストーリーは単純明快である」のが世界観のお陰だというのは、物語の中心になるのが「目に見える時間」だからだ。もし作品で使われる通貨が今のお金のままなら、すっからかんになった所で直ぐ死ぬ訳ではないから緊迫感が無い。お金が「個人に残された時間そのもの」だからこそ余裕はなく、常に緊迫感が走る。(映画の原題『In Time』の意味の中には「時間に間に合う」があるのも、その設定の暗示だ)

 

 でも私に言わせると、この映画の最大の見所というか考えさせるポイントは、通貨=時間だという作品内の設定が今の私達の生きる社会への強烈な風刺である点だ。

 

 お金…お金無しでは私達は社会の中で生きられない。お金を十分に持たないと人間の尊厳を守れない。必要な分だけお金を持たないと、得たいものも手に入らない。お金が足りないと手術費を払えず、助かる命も失ってしまう。ではそのお金はどうやって稼ぐのか。殆どの人の場合、時間を掛けて働くしかない。でも労働者が得られる給料には、「働く時間に合う分」という限界がある。でも雇う側やお金でお金を増やす人達に取っては、その限度が違い過ぎる。小説『モモ』や『はてしない物語』で有名な作者「ミヒャエル・エンデ」は次の様に述べた。

 

“ある人が西暦元年に1マルク貯金したとして、それを年利5%の複利で換算すると、現在その人は太陽と同じ大きさの金塊を4個分所有する事になる。一方、別の人が、西暦元年から毎日8時間働き続けたとする。彼の資産はどのくらいになるか。驚いた事に、1.5メートルの金の延べ棒一本に過ぎないのだ。この大きな差額の勘定書は、一体誰が支払っているのか

 

 映画では「25歳以後年を取らなくなり、時間が通貨の代わりになる」とかを言うけど、あくまでもそれは私達の住む世界でお金が持つ重さを強調する土台でしかない。殆どの人間の収入は分かり切った金額に収まるのだし、しかもそれを稼ぐ為には「個人の時間」つまり「人生」そのものを消耗しなくちゃならない。でも 最初から立場の違う人達に取って、収入を得るのは時間だけの問題ではなくなる。もちろんその様な人達だも、時間を掛ければ収入も増える事に違いはないだ ろ。しかし「最低限必要なお金を稼ぐ為に、毎日必死で働かなくてはならない」訳ではない。映画で主人公が金持ちになってから感じる変化もそうだ。

 

 また風刺的な要素は他にも色々ある。「人口管理の為に25歳以後に残り時間は1年にする」事もその一つだ。これが「何処かおかしい」と思うのは、私だけでは無い筈だ。通貨と言うものは本来実物から始まったものだ。物々交換の時には物そのものだった通過は、紀元前7世紀ぐらいには金属製になった。

リュディア王国のエレクトロン貨


 金属性の貨幣でも有名なのは、古代ギリシャのアテネで作られた銀貨「ドラクマ」である。前は「麦」みたいな現物貨幣で取引された事に比べると、金属は錆びる事はあっても腐る事は無い。だから、アテネで造られた銀貨は直ぐに全ギリシャ中に広まった。でも現物で造られる以上、発行でき る銀貨の総量はアテネが保有する銀の総量を超えられない。この様な制度は貨幣が紙切れに代わった後も続き、1971年にアメリカがドル紙幣と金の兌換を止める時までは、わりと常識的な考えだった。
 
 では映画『TIME』で通貨として使われる「時間」は、どういう位置づけなんだろう。先ず無限ではない事だけは確かだ。限られていないと通貨としては使えな いからだ。では意図的に図られて創られるものなのかと言うと、そうには見受けられない。 その辺の詳しい設定など公開されていないので、私なりの推測を言ってみよう。
 
 
人が25歳…何故25歳なのかは定かではないが、アメリカの「選抜徴兵法」の対象年齢が「18歳から25歳」である事を考えてみて欲しい。お酒やタバコ、投票の権利などが許可される法律的な年とは別に、「一人の大人」として認められる境が25歳だというわけだ。要するに「一人の働き手」として認められる年齢である。そこから成長が止まり残りは1年のみになるのだから、一応26年だけが一人の個人の人生の全てだという事になる。ここで一つの問いが生まれてくる。

 

 「その人の残り時間(人生)は何処へ消えたのか?」

  

 実は「誰でも不老不死なのに手首に刻められた時計で死ぬ様に操作されてるだけ」だとも言えなくもない。しかし、「殆どの人間が限られたお金しか稼げない」点から考えると、映画で出る時間とは、働く為に消耗される人生そのものを指していると思った方が妥当だ。そう、実際のアメリカの平均年齢を76歳(※2010年基準)だとすれば、年齢の保障された26年を引いた50年という年月は既に体制側に抜き取られたと思った方がいい。市場に流される「時間」という通貨は、同意無しで奪われた一人一人の人生であり、労働者は適当に生きる事も、ゆっくり歩む事も、余裕を楽しむ事さえも認められていない事である。そしてこれこそが『TIME』で言いたい核心ではなかろうか。

 

 庶民に比べて金持ちや権力者達は、映画内でどう描写されているのか。主人公がいきなり金持ちになった後、賭け事で更に多くの「時間」を稼ぐ場面が出てくる。貧民街では 「一日の時間を手に入れるのに一日が掛かった」その日暮らししか送れなかった人が、十分な資金の元で「数百年分の時間をいとも簡単に手に入れてしまう」(その稼ぎの内容は命を掛ける事までするのだけど、貧民街では毎日命を掛けてる様なものなのに乏しかった事を考えよう)同じ苦労同じ時間同じ人間に与えられるのは、同じ対価ではない。「お金」を金を稼ぐ本質である「人間の時間」に引き換えて、この様な社会の不条理を強く風刺しているのだ。

遊びの賭け事に貧乏人の一生分の給料である50年分の時間を、簡単に賭けるフィリップ・ワイス。


 どんな天才や権力者も、他人を使わずにその考えを具現化する事は出来ない。「コンピュータを使ってやるとそうでもない」なんて考えは、幼稚な間違いに過ぎない。そのコン ピュータを考案し発展させ製品として作り続けられてるのは、自分自身の力では無く大勢の他人の力のお陰なのだから。良いアイデアで素晴らしい発明品を考え出した人も同じだ。その製品は「他人の手」=「他人の時間」を消耗しないと製品化されない。そして他人の時間を掛けて流通し宣伝され売られている。一部の人間の命令や考えだけではこの世は成り立たず、何事も大衆を通じてのみ実体を持つのである。

 そんな事にも関わらず、人によって苦労の量と収入は釣り合わない。お金がお金を稼ぐ限り富は集中し、偏り、その結果階級は固定される。個人の能力で何とか出来るという儚い夢だけがそんな不公平な世の中を支え、実際ほとんどの事は既にある地位で決まってしまうのだ。19世紀から今までロンドンの貧民街と金持ちの区域に住む人々のデータをまとめた研究があったが、「安定された社会制度」の下では「階級移動は殆ど発生していなかった」という悲しい結果が出ていた。

 映画で出る「寿命では死なないお金持ち達」が意味するのは、その様に固定された階級の他ないのだ。(原題『In Time』の意味の中には「無期限に」という意味もある)安定されて変わらないなら、そこに不安定をもたらすしか選択しはない。ストーリーで主人公がする「体制を崩す為の行為」と正しい間違いを問わず「体制を守る」事しか考えない時間管理局の関係が、極めて単純な対立関係であるのも、最初から和解のできない事情があるからだ。

「考え過ぎじゃない?」と言うかもしれない。でも監督兼脚本の「アンドリュー・ニコル」が関わって来た作品を見ればそうでない事がすぐお分かりになるだろ。

ガタカ(1997) 監督・脚本
トゥルーマン・ショーTruman Show (1998) 脚本
シモーヌ(2002) 監督・脚本・製作
ターミナル(2004) 原案・製作総指揮
ロード・オブ・ウォー(2005) 監督・脚本・製作
TIME(2011) 監督・脚本・製作


 ところで全ての基準が時間である世界観は、何もこの映画が初めてな訳じゃない。日本では短編集『世界の中心で愛を叫んだけもの(1969年作)』で有名なSF 作家 ハーラン・エリスンの1965年に発表された短編『「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった('Repent, Harlequin!' said the Ticktockman)』がある。そのハーラン・エリスンから映画『Time』を盗作だと言い、映画の公開の中止を要求した事がある。

『「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった』の日本語訳は、20世紀SF③1960年代・砂の檻 (河出文庫) に載っている


 しかし実際に公開された後の映画は、「時間」が重要な素材として使われた事だけが同じで、その「時間」の立ち位置は小説と全然違うものであった。(きっと映画公開前の短編的な情報だけじゃ、「盗作だ」と思っても仕方のなかったのだろ)SF小説に詳しいアンドリュー・ニコルだから、小説を読んで映画のアイデアを得たかもしれない。でも、その言いたい内容と時間の使い方が異なる為、二つの作品は似て非なるものとなった。

 アンドリュー・ニコルの過去の作品と違って、この映画の結末はちっともスッキリしない。主人公は体制に反旗を翻したが、それで体制が崩れ去った訳ではない。主人公は彼のお父さんがそうだった様にこれからも戦い続けるだろうし、体制側はそれを押さえつけ様とするだろ。二つの考えは平行線で、寄り添い合う事はない。また主人公達は常に時間に追われるので、逃避し安らげる事も出来ないし、安息の未来など望められない。まるで泥沼の連続だ。だから観客も見終わった後に腑に落ちない。でも、その不愉快さは「自分達の住む社会体制の理不尽さから目を逸らさず、戦い続けろ」との監督からのメッセージではなかろうか。


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1. SFというより

私も好きな映画です。
SF的なガジェットが数多く登場するけど、SFというよりファンタジー作品だと思いました。
不死を実現した社会とは思えないようなつっこみどころが多々あるのですが、SF的に説得力のあるバックボーンが語られないので、これはファンタジー作品だと思い込むようにして、心の中で解決しました。(笑)

それにしても、ハーラン・エリスン、映画の公開中止を要求をしたんですか。(笑)

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