日常の会話の中やネット上で「この漫画は絵がうまい」という言葉を聞く。しかし、その「漫画の絵がうまい」との短い言葉が、それを言う人の中で必ずしも同じ意味を 持っているとは限らない。単語は常に複数の意味を持ち、文章になっては更に多くの意味を持つ。しかし人が母国語を使う時には慣れ過ぎてるが故、その事実に気付かないだけだ。
それでは、漫画でいう「うまい絵」とは、具体的にどういうものを指しているのかを一つずつ並べてみよう。
①自分好みの絵柄である
意外だと思うかもしれないが、絵を勉強した事のない・評論する立場でもない一般人である程「うまい絵」を決める条件として、これが一番大きい割合を示すであ ろう。でもこれは「上手い絵」というより「美味い絵」に近い意味かもしれない。絵を料理に例えて考えてみて欲しい。普通人々の言う「うまい料理」とは「栄養の高い」とか「健康によい」のではなく、「自分が食べて美味しい料理」である。では人が美味しいと思う料理はなんだろうか?貴重な食材や技術的に高い調理法で作られた料理だろうか、それとも高い料理なんだろうか。どっちもありがたい料理には違いないが、美味しい料理とは言い切れない。人々が口にする美味しい料理とは自分の好きな料理である。そして「好きな料理」は「好きな材料」と「好きな調理法」、「好きな味付け」に繋がっている。調理技術の高さは、決して第一条件ではない。
好みの絵柄は好みの味と同じく、時代と共に変わるものだ。例えば平成27年現在の日本人の口には「ラード(豚脂)」は美味しいものだ。しかし戦後間もない昭和の時にラードは「臭くて食えるものではない代物」でしかなかった。(その当時、マグロの大トロも今みたいに高級食材ではなかった)それは日本人の舌が脂っぽいものに馴染んでいなかったからである。この様に時代の流れと共に大衆の好みも変わるし、その中には絵柄も含まれる。自分の作品をより多くの人々に読んで欲しいのは漫画家として当然の想いである。だから既に絵柄を完成させたにも関わらず、時代の流れによる 「好みの絵柄」に遅れないよう努力を惜しまない漫画家も少なくない。
同じ作家が描き続ける漫画より、製作スタッフの変わるアニメの絵柄の方が時代の影響を受け易い。上記はアニメ版『地球へ…』の主役二人(左が1980年版で、右が2007年版)
では大衆の感覚だけではなく、絵心のある人の観点からの「漫画としてうまい絵」も語ってみよう。
②絵に構造の客観的な正しさがある
客観的に構造の正しい絵を一言で言い切れる言葉が無いので、それに近い意味を持つ言葉を代わりに使おう。
「絵の遠近法に狂いがない」
そう、正しい遠近法は客観的・構造的な正しさを漫画にもたらす。人間は別に考え込まなくても直感的に間違った遠近法による矛盾や異常を感じ取ってしまうので、遠近法は絵の説得力(≒実際にそこに存在する感覚)を増してくれる。しかし、全ての漫画で遠近法が求められる訳ではない。4コマ漫画では遠近法により客観性の ある絵を描くよりも「状態の説明」をするのが重要なので、場面によっては遠近法の優先順位が低い時がある。また1コマ漫画の場合は、重要なものは大きく描 かれ、そうでないのは小さく描かれる事も多い。表現したいもののため意図的に遠近法が無視されてるのである。(レンズ効果みたいに歪曲されるのは遠近法を 無視している訳ではなく、正しい遠近法の延長線上にあるのでこれとはハッキリ異なる)
漫画は建築デザインや産業デザインではないので、「客観的な構造の正しさ」はうまい絵に必要な要素ではあるし、機械や建築物が重要な役割を果たす作品では極めて重要なものの、漫画全般に掛けて全てだとまでは言い切れないのである。
2015年12月8日の『Dilbert』
遠近法が正しく働いていないが「漫画として全く問題ない」
③描写(デッサン)力が高い
描 写力の高い絵は、一般的に言う「うまい絵」に必要な要素である。だけど、だがこれは漫画に必須なものまでとは言えない所もある。細部まで緻密に描かれ過ぎ た漫画は、読者に「どこを読めばいいのか」を提示できない。逆に言うと描写力の中には「あえて緻密に描かない能力」も含まれているとも言える。適切に省略 する事によって、他の部分に自然に目が移る事と、脳に負担を掛けない仕組みがあるからだ。(ジャンルは違うが日本画でいう「余白の美」が正にそれである)
因みにペンで描かれる事の多い漫画の場合、描写力の中には「綺麗な線を引く能力」も含まれており、その重要性は極めて高い。
④キャラクターが安定している
こ れは「一目で同じキャラクターだと分かる様に描く力」を指す。これは先述べた描写力とは異なる「絵柄の安定さ」を指す。漫画はストーリーを魅せるものであ り、その中心には常にキャラクターがいる。そのキャラクターがカットごと違うキャラクターに見えたら、その漫画を読んだ読者が物語りを理解できる筈もな い。
遠近法も正しく、描写力も高い漫画家でも、絵柄が安定しない場合は少なくない。しかしその中には「絵柄が安定されていないか ら」ではなく、「余りにも構造的に正確に描くため」同じ者が違うキャラクターに見えちゃう場合もある。何もない空白に描く漫画であるので、少しの嘘を交え て仕上げる事も大事だ。
⑤コンテ構成が上手い
一つのカットで終わる漫画(例:風刺漫画)以外の全ての漫画は、複数のカットで構成される。そしてカットとカットを繋ぎ「一つの物語」にするのは、いくつか の法則性と工夫が必要である。いくら一つのカット内の絵が上手くても、その繋がりが悪いと漫画としては成り立たない。また「語りたい物語」が確かにあり 「その物語の起承転結が完璧」であっても、カットとカットの繋がりが悪いと単なるばらばらなカットの集まりにしかならず、繋がれたストーリーとし て読者に認識されない。この問題は既に絵を描ける実力を持つイラストレーターやアニメーターが、絵が描けるのを漫画が描けるのと錯覚した時に発生しがちだ。
『紅~くれない~』の漫画版には、漫画としてクオリティを高めるためコンテ構成の担当がいる。
⑥表現したいものを表現した絵
こ れは美人を説明するのに「今まで見たこともない、凄い美人であった」と書く様な少々卑怯な表現である。(美人が目の前にいると)正確に表現しながら、実は(どういう点 で美人だと思ったのかなどを)何も説明していない。では具体的な例をあげて説明しよう。
みなさんは学生の頃、教科書や参考書にパラパラ漫画を描いた経験はあるのだろうか。ページの端に棒人間を描き、アニメを作り上げる。そう、みなさんは「動きを表現するには、棒人間で十分」な事を身を以って経験した筈だ。 つまり表現したいものが先に存在し、それを表現する絵が道具として使用されるのである。その逆では決してないのだ。
棒人間を描ける人が、今度は「感情を表現したい」としよう。でも棒人間には顔が無いから表情も無い。そこで顔まで書き込まれた絵を描くだけが、感情を表す唯一の方法だと思うと間違いだ。漫画的な表現を使えば、棒人間のままでも感情を付けられるからである。
背景にこの様なスクリーントーンが付くと、同じ棒人間も異なる感情が宿る
これは作家視点の話だが、漫画に必要な力を語る前にどんなものを表現したいかが来なくては話にならない。自分が描きたい漫画の中心に「美男美女」がいれば、その為の描写力が必要である。自分が語りたいストーリーに「車」や「都市」が欠かせられないのなら、正確な遠近法で背景を描く力が不可欠である。しかし、「漫画そのもの」を何より魅せたいのなら、デッサンの上手下手は最優先的ではない。「表現したいものを読者に伝える為に必要不可欠な要素」が絵に含まれていれば、漫画としてうまい絵だと言い切れるのである。
マルジャン・サトラピの漫画『ペルセポリス』。流行の絵柄でなければ、遠近法も正確ではなく、カットによっては人体表現に間違いもある。しかし、作者には表現したいものがハッキリしており、それをきちんとまとめ上げた。だからこそペルセポリスの絵は漫画としてうまい絵だと言えるのである。
漫画も漫画の絵も非常に魅力的であるが、その本質は道具である。この事実を分からず「ただ漫画を描きたい」と闇雲に思うのは、目的地も無いのに兎に角突っ走るのと何の変わりもない。「絵を描きたいだけ」で漫画を描き始めるのであれば、漫画じゃなくイラストを描く方が正しい。でも「表現したいものが確かで、その表現法に漫画が似合う」のなら(一般的にいう)絵が下手とかを気にせず前に進む事をオススメしたい。