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BlackCatJayの雑談空間

黒猫Jayの個人的な雑談を集めた空間です。 主に扱うのは、創作と感想とその他です。

翻訳するべきか、翻訳しないべきか、それは問題じゃない

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翻訳するべきか、翻訳しないべきか、それは問題じゃない

世界のあらゆる本が日本語に翻訳され出版されている。それを支えて来たのは、日本の出版市場の規模の大きさである。日本の総人口は1億2729 万8千人(2013年10月1日)であり、経済規模と教育面で高いレベルを維持している。また公用語が日本語だけだという点で、出版市場が1つの言語でまとめられている点も大きい。だから学者や専門家みたいにリアルタイムで情報を得る必要のある人でない一般人としては、わざわざ外国語を学ばなくても大きな不便を感じずに読書を楽しめる訳だ。

ごく当たり前の事を言うが、海外の本やメディアが日本で一般の日本人向けに出版される場合、外国語は日本語に翻訳される。翻訳という過程を通すのである。しかしながら外国語の一つの単語が、そのまま日本語の一つの単語と一致する事などあり得ない。そしてもし「ほぼ一致する」場合があるとしても、本来の単語が持っていたニュアンスはもちろん、その単語が生まれて来て育ててきた歴史や文化的な背景までは翻訳しようがない。この問題は外国語まで行かなくても、「同じ日本語」だと言う東京弁と大阪弁の間だってハッキリ出てしまうのである。
ここでは聖書を大阪弁に翻訳した『コテコテ大阪弁訳聖書』の一部を、東京弁に翻訳された聖書と比べてみよう。

「マタイによる福音書」の東京弁訳

29節:しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
30節:今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
31節:だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

「マタイによる福音書」の大阪弁訳

29節:せやけどな、あんたらに言うけど、ものごっつう贅沢しとったソロモンでもや、この花一つほどにも着飾っとらんかったんやで。
30節:今日、ここに生えてて、明日は釜に投げ込まれるかもしれへん花でも、神はんはこんなにベッピンさんにしてくれるんやさかい、あんたらにそれ以上、ようしてくれへんわけがないやろが。ほんまに信心の薄いやっちゃな。
31節:せやさかい、何食うたらええんやとか、何飲もうか言うたり、ほいで何を着よかちゅうことなんか言うなや。
2004年に出版されたこの本では、普段見られる東京弁が大阪弁になっただけで同じ物語から全然違う雰囲気が漂うのだ。
東京と大阪は直線距離で約400キロメートルも離れている。この距離は昔なら農民だからの制限(≒土地に縛らている)でなくても、庶民が一生に一回旅行で行けるかどうか分からない距離である。その当時は「違う国」と言われた東京と大阪で、同じ言葉が育つ筈もない。今みたいにテレビやラジオがあり同じ時間に同じものを同じ言葉で見て聞ける筈もないのだから、異なる流行と文化が育ちそのまま言葉に染み込んでしまう。だから上記の例でご覧のように、訳した時点で本来の持つ味の多くが失ってしまうのがよく分かる。つまり「翻訳作業」とは「意味の通じる言葉に訳す」のがやっとであり、それ以上を求められるのは無茶である。
完全な外国語になると、この「翻訳されない部分」の問題だけでは済まなくなる。英文学で欠かせないウィリアム・シェイクスピアの作品『ハムレット』で有名なくだりを例にしてみよう。これは第3幕の第1場、「場内の一室」に出てくる。

“生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。(To be or not to be. That is the question.)”

上記の訳は、近年によく見られる翻訳の一つだ。しかし英語の原文を見ると「To be」と「Not to be」と書かれており、「死」と「生」だけの意味に限らない事が直ぐ分かる。厄介なのは「To be」という表現そのものが物凄く広い範囲の意味を持っている事である。もし作者が「死ぬべきか、生きるべきか」という意味だけを考慮し書いたのであれば、より直接な表現にすればいい。だから最初から複数の意味を頭の中に置いといて書いたに違いない。
ハムレットを例にあげたのは、あまりにも有名な作家の有名な作品な故、様々な翻訳者が出した翻訳本が存在するからだ。
では一つずつ確認してみます。先ず1909年出版された坪内逍遥さんの翻訳版では次のように訳されている。

“今こそ遂げうわ、恰どよし、祈りの最中。”

何しろ100年以上前の日本語なので、日本語で書かれているのに意味がよく分からないかも知れない。それを2005年に現代日本語に直したもの(坪内逍遥訳現代語訳版)を見てみよう。

“世に在る、世に在らぬ、それが疑問じゃ。”

坪内逍遥さんは原文を「To be」を「存在すること」の意味に注目して翻訳したのがよく分かります。しかし「祈りの最中」が「疑問じゃ」になったのは、原文の「This is the question.」には近いものの、坪内逍遥の翻訳版を現代語化したとはちょっと思えない節がある。それでは翻訳本というより解釈本に近いが、1941年に出版された太宰治の『新ハムレット』での翻訳を見て欲しい。

“to be, or not to be, どっちがいいのか、僕には、わからん。”

我らの太宰治先生は翻訳する苦痛から逃げました、なんと原文そのまま載せている。「僕には、わからん」の部分が太宰さんの「いったいどんな訳をすればいいのか」の気持ちに対する本音のように聞こえる。その深き苦悩は解らない事もないが、英語を全く知らない人にとってはあまりにも不親切で翻訳と言えるものではない。次は1946年出版された鈴木善太郎さんの翻訳版を見てみよう。

“生き存らふ(いきながらぶ)べきか、死ぬべきか、それが問題である…”

ここでは「存在の許し」から「生と死」へ翻訳内容の方向が変わっているのがお分かりになるだろ。でも翻訳できる範囲はそこだけで収まり切れない。「To be」が何処までの行為を含むのかに関しては、読者によって相当異なる解釈が生まれてしまうからだ。1966年の小津次郎さんは「復讐すべきか」が劇中のハムレットが抱えている一番大きい悩みだと結論を下し、次の様に翻訳した。

“やる、やらぬ、それが問題だ。”

ジャンルを変えて1991年(アメリカでの公開は1990年)、フランコ・ゼッフィレッリ監督の映画での日本語字幕では凄くシンプルだ。

ハムレットは、オリジナルの演劇なら4時間以上掛かるものだ。しかし、長くても2時間以下に収めなきゃいけないのが映画の宿命。そのため色々省略されるのが映画版ハムレットが避けては通れない道だ。そして短い時間内に読まなくてはならない映画の字幕の都合も重なり、だったの4文字に圧縮されている。2002年に出版された野島秀勝さんの翻訳版では一番多く解釈される文章になった。

“生きるか、死ぬか、それが問題だ”

そして2003年の河合祥一郎さんの翻訳した『新約ハムレット』では、これと似て非なる翻訳が見れる。

“生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ”

ハムレットの日本語訳の話に本格的に入ると実に40を超えるハムレットの翻訳本に出会ってしまう為、事例をあげるのはここまでにしよう。とにかく一つの文章がいくつもの多様な文章に翻訳されており、それが本一冊になるとどんなに多くの翻訳が生まれてくるのかは、言うまでもないだろ。また本来ハムレットが舞台で行われる演劇の為のものだという事を考慮すると、翻訳されたハムレットは舞台上で俳優が喋るに相応しいかどうかによって正しい翻訳であるかを判断できる基準になる。要するに小説として書き下ろした太宰治の『新ハムレット』と公演を全般にした台本としてのハムレットとは、同じ場面の同じ台詞でも異なる文章になるしかないという事だ。例の一つとして取り上げた映画用字幕みたいに「翻訳文の使用目的が先にあり、それに沿って翻訳する」ことが「正解のない翻訳作業で、不正解をよける目印になる」のである。
では雑談の最後を、幕末に記者として来日したイギリスの作家兼漫画家のチャールズ・ワーグマンが、1874年にハムレットの「To be or not to be. That is the question.」を翻訳したもので閉める事にしよう。

“アリマス、アリマセン、アレワナンデスカ ”

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